● いつもありがとうございます、あさてつです。
God is dead.
「神は死んだ」
いきなりですが、この有名なフレーズをご存知ですか。ドイツの哲学者であるフリードリヒ・ニーチェの残した名言です。
本日は結構真面目に(?)ニーチェの名言についてみなさんと考えてみようかと。けっしてあさてつが急にシリアス路線に変更したわけじゃないんですよ(笑)
たまには偉大な哲学者の含蓄深い言葉をしっくりと胸に刻んでみたくなったんです。たまにはこういう記事もいいかなと思って書いてみました。
ぜひこの偉大な哲学者の深い言葉を一心に受け止めてくれたら幸いです。
ニーチェの有名な名言をひも解く
この有名なフレーズ、英語と日本語をよく対比してみると、ちょっと違和感を覚えるかもしれません。試しに以下の文を、学生時代どんな風に日本語訳していたか思い出してみて下さい。
My grandfather has been dead for ten years.
きっと大抵の方は「私の祖父が亡くなって10年になる」とか、まあもっと直訳すると「私の祖父は10年間死んでいる」という感じで思い出していただけたことでしょう。英語圏は土葬の風習があり、「亡くなった状態で(土の中に埋められて)存在している」という概念がこういう表現を生んだのだと思われます。
そう、deadはdie「(動)死ぬ」の形容詞バージョン、だからbe動詞+deadで「死んでいる(=死んだ状態で存在している)」というニュアンスになっちゃうんです。
ですが、このGod is dead.は「死んだ」という過去形のような日本語を充てている。これは何故でしょう。それは、この言葉が生まれた背景にあります。
当時の時代背景
彼が活躍していた時代は19世紀。それまでのヨーロッパはキリスト教の考え方がすべての基本であり基準でした。(もちろん、今でも多少そういう部分はあるのですが)
キリスト教の教えに従うことが「善」であり、背けばそれが「悪」であると、そういう考え方だったんです。かつての、そして現代の日本にも根付いてしまっている同調圧力のようなものと考えることもできますね。(現代の日本はインターネットやSNSの普及によって個人が好きなものや好きなことを形にしたり発信したりすることができるようになり、人と違っていることが高評価を得られるようにはなりましたが)
そうすると、生き方が固定されてしまうわけです。
しかも、キリスト教は「貧しいものこそ幸せである」とか、「裕福な人間が天国に行くのは難しい」とか、「清貧」を美徳とする考え方があります。これ自体がもちろん悪いわけではありません。しかし、これに完璧に従おうとすると、「裕福な人間(自分より立場が上の人、強い人)を叩いても問題はない!だって神様が言ってるんだもん!」という、簡単に言うと「悪口を言うことが正当化されてしまう」ということが起こりうるわけです。
しかし、ルネサンス期の前後から、物理学や力学、解剖学が発展し、科学の考え方や非科学的なものに対する批判的な精神などが生まれてきました。更にはイギリスでの産業革命もあり、時代は「資本主義」、つまりは「がんがん裕福になれちゃうんだぜイェーイ!」という方向に向かっていきます。
自然のあらゆるものが科学的に解明・証明され、それを応用した科学の力でもって裕福になれる、自分の道を歩むことができる。
人々は思い始めます。「神はいないかもしれない」と。
そういう時期に、今までのキリスト教の価値観ではない新しい価値観を提示しなくてはならないとニーチェは考えました。
それが、神の教えに従う「善」・背く「悪」ではなく、自分が楽しいと感じる「よい」・つまらないと感じる「わるい」という価値観です。神という外部によって善悪が判断されるわけではなく、それを判断するのは自分である、ということですね。
その「旧・価値観」を引きずってはいけませんよ、もうその時代は「過去」であり「完了」してしまっているんですよ。
そう考えるニーチェの意を汲み、「死んでいる」ではなく、「死んだ」という日本語を充て、人間が新しい価値観で生きていく時代の到来を表現したのでしょう。なんと粋な訳であることか!
……ということで、かなり前置きが長くなりましたが、今回は、そんなニーチェ先生の名言をご紹介します!
And if you gaze for long into an abyss, the abyss gazes also into you.
「汝が深淵を覗き込むとき、深淵もまた汝を覗き込んでいるのだ」
これもまた有名なフレーズですね。Twitterなんかだとこれをもじっていろいろな表現を生み出している方が多くて、それもまた面白いです(笑)
これもここだけが独り歩きしてしまっていますが、前置きがあるんです。全文は、
He who fights with monsters might take care lest he thereby become a monster. And if you gaze for long into an abyss, the abyss gazes also into you.
「怪物と闘う者は、自らも怪物にならぬよう、気をつけるべきだろう。深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれているのだ」
という感じです。
これ別にガチでモンスターと戦うわけじゃないですよ?(笑) そんな2次元的な話をする人ではありません、ニーチェ先生は。
ここでの「モンスター」は、「人間の心の奥底にある無意識」を指しています。無意識について述べた心理学者はフロイトが有名ですが、フロイトの「個人的な無意識」ではなく、その弟子・ユングの「集合的無意識」ないしは「普遍的無意識」の方です。
これは、「人間は有史以来受け継いできている、万人共通の無意識が、個人的な無意識とは別にある」というものなんですが、まあ神話や伝説、童話には成立した国や時代を問わず、どことなく似ているオチ・教訓が隠されていますよね。ざっくりいうとあんな感じのものです。
そこと戦う人はそっち側に引き込まれてしまいもするから気をつけようね、無意識の世界に迂闊に深入りすると戻ってこられなくなっちゃうよ、という言葉です。
先の「同調圧力」に話が戻りますが、その「同調するポイント」がこの「普遍的無意識」になります。
こういうことをしなければ、こうしておかないと……そういう思考のスパイラルに陥ると、帰ってこられなくなりますよね。そしてそのまま、自分がやりたいことや楽しいと思うこと、ニーチェの言う「よい」ことが何か思い出せないままになってしまう……。そういう経験がある方も多いのではないでしょうか。私も含め、そういう思考に陥りやすい人はぜひこの言葉を大切にしたいですね。
What is the seal of liberation? Not to be ashamed in front of oneself.
「自由の証とは何か?自分自身に恥じないことである」
「よい」ことを追求するにあたって、慣れていない人、「深淵」に覗き込まれてしまって引きずり込まれてしまっている人は、罪悪感を伴うことが多いと思います。これをやりたいからこんなことしてみたんだけどよかったのかなあ…的な。そうすると、自由にやっているにも関わらず楽しくない「よい」ことをしようとしているのに「よい」状態ではなくなってしまいます。
「よい」ことをするのなら、「よい」気持ちでしたいですよね。
自分の感じる「よい」に対して堂々としていること、自分の選択に自信を持つこと…ときには責任を持つこと。そんな風に支えてくれるようなフレーズです。
あとがき
やはり哲学者というだけあって、彼の言葉は全てが深いですね。言葉の生まれた背景や喩えの表現を読み解いていくと、その言葉の持つ意味合いがまた違って見えてきませんか?
今回は、フレーズの数こそ少ないけれども、この辺で……。
コメント